2006.7.1(土)曇り。不安定な空模様。入間川歩行はお休み。 九時、親水公園南端。なんだか、気持ちが落ち着かない。パチンコだ。迷っている。行けば、負ける。わかりきっている。それに、身体にもよくない。きき過ぎの冷房の中で、イライラしっぱなし。ところが、理屈のわからない奴がいる。ちょっとだけ、遊んでみよう。甘い言葉で、囁きかけてくる。「入間川写真紀行」。表題が、泣いているぜ。
2006.7.2(日)曇り。入間川歩行はお休み。 九時、給水橋の下。時間を二十四時間ほど、巻き戻そう。 けっきょく、誘惑に負け、パチンコ。十時前に、イチプラ笠幡に着く。開店前だというのに、駐車場が、ほぼいっぱい。入り口付近に二、三百人いる。こんなことは、はじめてだ。見たことがない。出すのかな。期待した。 はじめは、「大海」の空き台に座った。しかし、データを見て、やる気がなくなった。どう考えても、出そうにない。案の定、台が死んでいる。回りも、さほどよくない。すぐに、真後ろの台に移った。これも駄目。やる気になれない。辺りを見回した。海のシマは、全席埋まっている。しょうがない、すこし粘ろうか。いや、やめよう。台から離れた。 遊び台のコーナーへ行った。先日やった「チョロQ」が空いている。打ち出す。回りが悪い。話にならない。席を立つ。あとは、初めての台で、暇つぶし。二回出すが、すぐに飲まれる。粘る気もしない。店内をぶらつく。ほぼ満席。三割くらいは出ている。空いてる台で、ちょこちょこ打つ。奇跡は起こらず、二時間ほどで、有り金一万二千円、すべて使い果たす。さばさばした気分で、店を出る。 十二時半頃もどる。昼食、昼寝。あつくて、寝苦しい。三時過ぎに起きる。気持ちが落ち着かない。外出。川越のGAPへ行く。衣服の衝動買い。パチンコに負けて、なおさらストレスが溜まった。五時過ぎに戻る。気分は、比較的平静。パチンコ呪縛が、解けたようだ。 十時就寝。朝方に見た夢。隣家のベランダに、布団や毛布が干してある。ややあって、それらが、自分の家のベランダにひっかかっている。風に吹き飛ばされたのだろうか。投げ返す。しかし、届かずに、落下。下をみる。目のくらむような高さだ。ここは、二階のはずだ。不思議に思う。 二十四時間経過。 日曜日の、午前十時。少し陽がさしてきた。あつい。先ほどから、目の前の護岸に、オヤジがいる。暇をもてあましているのだろう、体をほぐしながら、長い間、とどまっている。グレーのTシャツの背中が、汗でぬれている。汚らしい感じ。そばに、茶色の柴犬がいる。こっちは、おとなしくオスワリをしている。毛並みもよく、賢そうだ。 目障りだな。そのとき、ふと想った。あのオヤジ、前にも見たことがある。場所も、ここだ。時間も、日曜日の午前中。なるほどね。暇つぶしの犬の散歩。オヤジの日課、というわけか。それにしても、目の前で、うっとうしい。引き上げよう。
2006.7.4(火)晴れのちくもり。さほど暑くない。入間川二十番、新豊水橋。九時から十一時半。 八時半前に、アトリエを出る。サイボクの横を通り、299号のバイパスに入る。少し行って、新豊水橋の側道を下りる。信号を左折。すぐに、回り込むような形で、神社脇の道に車を止める。 圏央道の高架の下。仏子の庚申神社。一度、狛犬を撮ったことがある。今日もまた、敷地内へ足を踏み入れた。少し迷ったが、本殿に一礼。そのあとで、ゆっくり、由緒書きなどを読んだ。前から気になっていた、柄杓奉納の意味が、やっとわかった。 庚申信仰。詳しくは知らないが、中国の道教の流れを汲む、民間信仰。体に虫が入ってくる日があるそうで、その日は、寝ずに、飲食などをして、過ごすのだという。日本では、それが転じて、胃病を治す神様、庚申様となった。 病気平癒のさいには、柄杓の底に穴をあけ、奉納する。穴が空いているから、いくらでも汲める。転じて、いくらでも食べられる、という意味になったらしい。なるほど。思う存分食べられる。胃病の治った人の幸福感が、伝わってくる。 中に、極端に大きな柄杓があった。背伸びして、なかをのぞいてみた。やはり、穴があけてあった。奉納した人の喜びが、視覚化されている。面白い。
高架下の横断歩道を渡り、橋の歩道に上がった。迷わず、遮音壁の窓へ向かった。半開きになっている。今回も、鍵はかかっていなかった。
戻った。車を回転させ、仏子の河原へ向かった。たしか、コンビニの横あたりの脇道だ。あれだ。右折。突き当たりは生コン工場。左折して、工場沿いに走る。すぐに、河原へ出る。 写真を撮るような景色は、どこにもない。でも、いちおうは、順路だ。車を、河原へ乗り入れる。あちこちに、直火バーベキュウの跡。黒々としている。いくら注意しても、駄目な連中がいる。車をおり、水際へ行く。水がきれいだ。意外。それに、カワウ対策の、ヘンなスズランテープもない。殺風景ではあるが、多少こざっぱりした。 移動。右岸の文化村へ行った。駐車場は、ガラガラ。今日は空いている。こじんまりとした芝生の広場。若い母親達が、子供を遊ばせている。その脇を通り、水辺に降りる。なんとなく、様子が変わっている。草ぼうぼうだ。 以前、ここで、清掃活動をしていた女性と立ち話をした。あの時とは、あきらかに、地形がちがう。行政の手が入ったようだ。ななめ横を見上げた。茶色の巨大なマンション。女性は、引っ越したのかもしれない。 移動。また仏子の河原に戻った。今度は、河原沿いの道を、川シモへ向かった。新豊水橋の下をくぐる。右手には、資材置き場。じきに、高い崖。手前には土手。川原道は、その少し先で、行き止まり。大きな下水路、いや失礼、秋津川が、入間川に流れ込んでいる。 土手の向こうには、鍵山浄水場。ところが、工事をやっている。かなり高い建物が、何棟も建設中。団地のような感じ。浄水場は、どうなっちゃったんだ。車をおりる。浅瀬をわたり、向こう側へ渡る。渡ったところに、水深計が、一本立っている。圏央道と、十字に交わっている。
向き直る。ちょっとした坂を上り、土手に上がる。桜並木の散歩道。所々にベンチ。両脇に、花も植えられている。ぶらぶら歩き出す。アジサイの一株が、目に入る。立ち止まる。じっと見る。至近距離で、何枚も撮る。これは、何とかモノにしたい。
2006.7.6(木)曇り。入間川歩行はお休み。 九時、親水公園南端。朝起きたときから、パチンコへの誘惑。さほど強いものではない。理性で、かるくいなす。また、一日を棒にふるのか。とんでもない話だ。 写真の話でもしよう。ここのところ、天気がよくない。写真を撮る機会が減っている。日差しがないと、風景写真は、きれいに撮れないんだ。 地上のモノに露出を合わせれば、空が、白く飛んでしまう。逆に、曇天の、微妙な空を取り込もうとすれば、モノが輝きを失う。 一時、風景がきれいに撮れなくて、イライラしていた。下手糞だ。気持ちが腐った。しかし、これは、自然光を当てにしている限り、いたし方ないことだ。空の青さと、草木の緑を撮るには、どうしたって、日差しが必要なんだ。天気のよくない日には、もう、撮らない。 一種の開き直りだ。いや、日差しを待つことも、写真行為のうちだ。撮影技術の初歩といってもいい。なんでもかんでも、闇雲に撮っているのは、初心者だ。撮れるはずない。そのことに気づいただけでも、たいした進歩だ。 写真を撮り出して十年、やっと、ランクがひとつ上がった。写真の初級者だ。自分だけの、思い込みかもしれない。ま、そう言われてもいい。写真を見る目が、すこし厳しくなった。多少の自負がある。 写真をはじめた頃、近距離で、モノを撮っていた。いわば、接近戦だ。露出などは、ほとんど考えもしなかったが、ときには、気に入った写真が撮れた。ところが、すこし距離をおくと、とたんに、見るに堪えない。露出の問題もあるが、構図がまったく作れない。 撮りたいものを、画面いっぱいにおさめているうちは、アラが見えなかった。しかし、ちょっと距離をおいたとき、事態が急変した。次元が変わったといってもいい。 撮りたいモノの周りには、どうでもいいモノまである。撮っておきたいモノと、そうでもないモノとが、混在している。それでもかわまず、真中から、ちょっとはずして、パチリ。しかし、あがってきた写真は、どれもこれも、理解に苦しむ。いったい、なにを撮ったのか、皆目、見当もつかない。 二、三年して、写真も飽きた。ぜんぜんうまくならない。その後は、初心者のくせに、高級な一眼レフをぶら下げて、写真を撮るフリをしていた。ニコンのF5とVR。見せびらかして歩いた。 何年かして、今度は、デジカメで撮り出した。すると、作風が一変。遠めにひいた、風景写真ばっかし。カネがかからないから、ばんばん撮った。そのせいか、多少は、気に入った写真が撮れるようになった。パンフォーカスという撮影技術も会得し、露出や構図に関する経験を積み上げた。 自慢話をしたいわけではない。話したいことは、こうだ。写真は、遠距離、中距離、近距離によって、それぞれ、撮れるモノが異なる。無限大の空間、目の前の空間、事物。ようするに、撮影者の意図にかかわらず、どこに焦点をあわせるかで、撮れるモノが決まってしまう。 たとえば、川原に一人の人間が立っている。顔のアップなら、背後の景色は、背景となる。全身を写すとなると、周囲の空間が写りこむ。場所や時間がわかる。さらに、ぐうっとひくと、画面から人間がいなくなる。人間は、点景。主役は、風景。いや、もっと正確に言うと、風景を見ている撮影者の眼だ。 風景写真は、一見して、客観的に見える。だれが見ても、そう見えるように思える。ところが、そうじゃない。逆説的だが、風景写真ほど、撮影者の主観が写りこむ。だから、何とかして、それを隠す。紋切り型の風景写真が氾濫する所以だ。 風景を見る視点は、無限といってもいい。素朴に、その視点からの風景を写真にすればいい。ところが、そうはいかない。構図、というものがある。写真は、頭の中で、すでに出来上がっている。あとは、現実の世界を、その「枠」で、切り取るだけだ。 紋切り型とは、この「枠」のことだ。もっとも、「枠」にも、ピンからキリまである。名人芸に達しているものも、数多く存在する。理屈ばっかりの、ふにゃふにゃの「枠」に比べれば、超時代的な「枠」のほうが、はるかに説得力がある。北斎、広重の風景画は、その嚆矢といえる。 きょうは、書きたかったことに、なかなかたどり着けない。話せば話すほど、脇へそれる。そろそろ、切り上げよう。 中距離の写真も、撮ってみよう。いわゆる、スナップだ。これなら、天気のことは、さほど気にしなくてもすむ。ただし、非常に複雑。風景は、自分の主観で撮る。事物は、相手の存在感にゆだねる。而して、スナップは、その両方。モノ同士の関係や布置、空間の気配を、一気につかまねばならない。直観力が、ものをいう分野だ。はたして、自分に撮れるのか。先日撮った、大きな柄杓の写真が目に浮かぶ。かなり気に入っているのだが、思い込みだろうか。
2006.7.8(土)曇り時々晴れ。入間川二十番、新豊水橋。九時から十一時。 根岸線を、飯能方面へ走る。圏央道の高架が見えてくる。手前で左折。崖沿いの道をくねくね行く。左手は木立。下の川原は見えない。廃院の横を、おっかなびっくり通りすぎる。いつ来ても、薄気味悪いところだ。 視界が開ける。身障者の作業場がある。その先に、真新しい車止め。すり抜けて、川原に入る。右へ行くと、新豊水と圏央道の高架下。暗くて、じめじめしている。むろん、景色もよくない。どうしようか。川沿いに車を止め、すこし考える。と、後ろからワゴン車。見ていると、高架の下で停車。じきに、ちゃんとした身なりのオヤジが出てきた。ショルダーバックを持っている。川原道を、今来た方向へ歩いていく。どこへ行くのか、皆目見当もつかない。 高架下には行かない。回転。川シモへ向かう。左手に、ちっぽけなグランド。縁に、オレンジ色の花。これは、ノカンゾウか、ヤブカンゾウか。外に出て、何枚か撮る。向こうで、ヘンなオヤジが、グランドを走り回っている。てれんとしたポロシャツを着ている。意味がわからない。 悪路の川原道が続く。視界がない。左側には、見上げるような産廃の山。対岸には、ワゴン車が二台。その前に、ジジイが二人、椅子に腰掛けている。釣りかな?いやちがう。釣竿がない。いったい、なにをやっているんだ。そのうち、丸太の車止め。すり抜けると、道がすこし広くなる。視界が開けた。 向こうで、釣りをやっている。車で、行き止まりまで行くこともできる。しかし、脇を通りぬけていくのが、億劫。その場に車を止め、外に出る。ちょうど、川が、大きく蛇行している地点だ。向き直る。川シモの景色を何枚か撮る。 流れが、鈍く光っている。正面には丘。その下に住宅やマンションが見える。まるで、マッチ箱を積み重ねたようだ。好きな景色だが、あいにく、空に色がない。しかも、この時間帯は、逆光。何もかもが、ぼおっとしている。やけに、現実感がない。
戻る。グランドの横に、車が何台もとまっている。ゆっくり行く。ジジイたちだ。ソフトボールの練習だな。さっきの、ポロシャツオヤジもいる。こっちを、じろじろ見ている。いやな感じだ。 川原をあとにし、299号のバイパスに出る。新豊水の側道を下り、左折。県道を、すこし走り、脇道に入る。まちがって、鍵山浄水場の前に出る。看板を見ると、改築工事とある。なるほど。回転。住宅地の中を、ぐるぐる走り回り、やっとのことで、黒須中学校にたどり着く。右岸の川原ヘの入口。ここしかない。 不審者に間違えられないように、サングラスをはずす。小心者だ。正門の前を抜け、川沿いの道へ入る。左手は、先日歩いた鍵山の土手。今日は、右へ行く。すこし行って、車を止める。対岸の護岸、桝目状のコンクリの中が、緑色。草が生えている。先ほどは、あそこに立って、川シモを眺めていた。 悪路、しかも、草深い。もうこれ以上は進めない。ちょうどいいところに雑木。都合よく、少し広くなっている。車を乗り入れる。川沿いの道を、カミへ向かって歩き出す。と、釣り竿。三本、川にかかっている。そばに、軽のワゴン車。近づいていくと、小さな黒い犬が、車の中から出てくる。無遠慮に、キャンキャン吠え立てる。飼い主が現れ、犬をなだめている。チラッと見るが、こちらには、会釈もしない。いやなオヤジだ。 無視して、通りすぎる。すぐに、行き止まり。草ぼうぼうで、堰には近づけない。立ち止まり、対岸をゆっくり眺める。堰の監視塔、その横に、形のいい木立。戻りながら、なおも対岸に目をやる。がっちりしたコンクリの護岸。その向こうに住宅。む、あんな所に黒い穴。じっと見る。排水溝のようだ。
また、犬が吠え立てる。今度は、オヤジが抱っこして、なだめる。すれ違いざま、きっと見る。オヤジは、目をそらし、無言。ふん。 車のドアを空ける。暑くてしょうがない。それに、なにか、強烈な匂いがする。見上げた。この木だな。一本は、合歓の木。葉っぱに特徴があり、かんざしのような花をつけている。となると、隣の奴だ。葉はぎざぎざ、樟脳の匂いだ。たまらんな。 急いで、窓を閉めた。お、あんな所に水深計。フロントガラスの向こうだ。草に埋もれている。もう一度、車から出た。カメラを構え、一枚だけ撮る。ここに来たら、必ず撮っている。なじみの水深計だ。それにしても、ひどい匂いだ。身体中、かぶれそうな気がした。またな。急いで、車を出した。 今日も不発。いい写真はない。それに、ヘンなオヤジばっかしだ。
2006.7.9(日)小雨。ふったりやんだり。入間川歩行はお休み。 八時半にアトリエを出る。まっすぐ、親水公園南端へ行く。二時間みっちり、写真紀行を書く。十一時、引き上げ。川越のGAPへ行く。これといって、欲しいものはない。ただし、駐車場代を払うのが惜しいので、紺半袖Tシャツ(¥3200が¥1200)を買う。一時前に戻る。試着、吟味。生地がいい。下着にするには、もったいない。昼食、昼寝。三時頃起きる。写真紀行を仕上げる。 衣服の衝動買いは、だいぶ下火。もう、ネットショップでは、買わない。試着しないことには、話にならない。とはいえ、GAPでは、相変わらず、無駄買いをしている。先週も行った。安くなっているから、ついつい手が出てしまう。だいたい、正価の三分の一。値段のわりには、品物がいい。デザインもおしゃれ。サイズも、Sで、ほぼぴたり。ま、気分転換だ。 以前は、上から下まで、ユニクロだった。それを、最近になって、GAPへと、宗旨替えをした。ところが、丸井の閉店にともない、地下のGAPもなくなるのだという。店員に、それとなく尋ねたが、今のところ、川越に出店する予定はない。せっかく、自分に合ったブランドを見つけたのに、がっかり。 川越の丸井が、閉店になるのは、なんとなくわかる。一、二回、行ったことがあるが、客がほとんどいなかった。それにひきかえ、GAPのほうは、かなり盛況。土日は、レジに、列ができるほどだ。自分もそうだが、セール品が目当て。安いわりには、物がいい。 ひそかに思うのだが、あれだけ客が付いているのだから、丸井の閉店後、駅前の、どこかに出店するのではないか。商売上、伏せているだけだ。でないと、志木か大宮まで、デバって行くことになる。遠すぎる。考えただけでも、億劫だ。 最後に、昨晩見た、気色悪い夢を書いておこう。倉庫のなか。ゲリラ組織のアジトのような感じ。敵の攻撃を受けている。ドアに隠れている狙撃兵を発見。捕まえる。裸にして、鎖で縛り、天井からつるす。血だらけ。しかし、それでも、逃げようとしたのか、目の前の床に落下してくる。すぐに、処刑人が来て、捕虜を八つ裂きにする。首をへし折り、頭の皮をはぐ。見るに耐えない。顔が真っ白で、目の回りが、ぽっかりと黒くなっている。もう、人間の面相ではない。目覚めてなお、いつまでも頭に残っている。ほんとうに、気味が悪い。
2006.7.11(火)曇り。入間歩行はお休み。 今日は、午後から眼科診察。それまで、アトリエでくすぶっているのも、気詰まり。気晴らしに、出てきた。九時、親水公園南端。蒸し暑い。ジャージーから短パンに着替える。 これといって、書くことはない。表面上は、平穏な日々が続いている。もっとも、一皮むけば、ドロドロ。悪感情が、とぐろを巻いている。とはいえ、言葉にしたところで、決着のつく問題ではない。 何年か前の想念草子は、他人への恨み辛みで、溢れかえっていた。やり場のない怒りを、言葉にすることで、かろうじて、自己を保っていた。あの時に比べれば、今は、かなり幸せだ。気持ちが落ち着いている。 芝居と家族。生甲斐を、あいついで失った。それもこれも、左目のせいだ。健康を損ね、社会的弱者へ転落した。思いもしなかったことだ。精神の均衡が崩れそうになったほどだ。 文章を書くことで、かろうじて、踏みとどまった。しかし、辛い、悲しい日々が続いた。そんな時、ふと思った。瞑想だ。はじめのうちは、一時間くらい、静かに座った。ところが、しだいに飽きて、おざなりになった。それでも、朝100回の数息だけは、生活に定着した。整頓、洗面の後、時間にして二十分ほど、静かに息を吐き、吸う。 たしか、NHKのドキュメンタリーだった。一日に、五分でもいいから、静かに座ってください。永平寺の老師の言葉だ。 最近になって、数息を、二十回ふやした。将来的には、朝と晩で、四百回やりたい。歩行、写真、文章。それに加えて、瞑想。理想的な生き方に、一歩近づく。
2006.7.13(木)曇り時々晴れ。蒸し暑い。入間川十九番、笹井の堰。九時から十一時半。 今日も、親水公園で、写真紀行を書くつもりでいた。ところが、薄日がさしてきた。急遽、歩行に切り替える。 根岸の信号を左折。豊水橋を渡る。回り込んで、橋の下へ行く。運動公園のなかを走り、一番奥まで行く。車を止め、護岸沿いの小道を歩き出す。自転車が置いてある。横を見ると、茂みの中で、小柄なオヤジがカメラを構えている。水辺に来る鳥をねらっている。一瞬、目があったが、シカトする。 蒸し暑い。もう汗びっしょりだ。さいわい、小道は木陰。撮りながら、ゆっくり、堰の下まで行く。静かだ。 戻る。橋を渡り、左岸側へ行く。堰の真横に車を止め、外に出る。護岸越しに、川カミの景色を眺める。せき止められた流れが、広々としている。しかし、絵にならない。それに、逆光。撮っても駄目だ。 日陰で、足を止める。しばし、ほとばしる水流を眺める。 写真を撮り出した頃、何度も何度も、ここで撮った。シャッタースピードを五百分の一以上にしないと、水流は止められない。そこまではわかったが、いい写真は、撮れなかった。 なぜ、水流ばかり撮っていたのだろう。いや、思い出したくない。昔のことだ。 監視塔を撮るために、少しカミへ歩く。両手に杖。腰の曲がった老人だ。すがるようして歩いている。おや、今度は、手押し車のばあさんだ。この暑いに、どこへいくのだろう。 雲間に、久しぶりの青い空。おりしも、カッとした真夏の陽射し。汗がどっと噴出す。廃車の脇をすり抜け、斜めの護岸に立つ。正対し、監視塔を撮る。しかし、暑くて粘りきれない。
引き上げ。窓越しに、ふと横を見る。堰の脇の小さな公園。ブランコに、老人が揺られている。こっちを見て、笑っている。いや違うな。目の前を横切った、ばあさんを見ているんだ。 それにしても、やけに、艶っぽい笑みだった。知り合いなのか、それとも、特別な関係があるのか。腰の曲がった男女の世界。ハンドルを握りながら、首を横に振った。まだ、想像すらできない。
2006.7.15(土)晴れのち曇り。夏日。暑い。入間川十八番、豊水橋。九時から十一時。 豊水橋の歩道を歩きながら撮る。なじみの景色だが、気持ちが動かない。無風。鏡のような川面。夏空が、かすかに映っている。
2006.7.16(日)曇り。入間川歩行はお休み。 八時半、アトリエを出る。給水橋の下へ行く。車の中で、写真紀行を書くつもりだった。ところが、蒸し暑い。やる気を失う。すぐに移動。川原道を、関越橋付近まで流す。引き上げ。気分転換。カインズホームなどで買物。十二時過ぎに戻る。昼食、昼寝。四時頃起きるが、依然としてやる気が出ない。けっきょく、写真紀行の制作をサボる。
2006.7.18(火)雨。一日中、降りそうだ。入間川歩行はお休み。 九時、親水公園入口付近。ストレスが溜まっている。衣服の衝動買いで、気持ちを紛らわせている。パチンコをやるよりはましだ。 文章を書くとか、HPの手直しをするとか、写真や切手を眺めるとか、ほかに、もっとやることがあるはずだ。それなのに、時間を持て余している。所在ない。 日課の、想念草子や写真紀行すら、おろそかになっている。手抜きの文章が多い。精神が弛緩している。だらけきっている。 これといった心配事はない。不安でもない。お袋の介護以外は、人間関係の煩わしさからも開放された。好きなことを、好きなだけやれる。他人から見れば、悠悠自適の生活だ。 若い頃は、生活費を稼ぎながら、本を読み、芝居をやっていた。もっと時間があれば、もっといい芝居が作れる。自信があった。あの自負も、言い訳だったか。過信しすぎていた。 人生のハードルを高く設定しすぎた。過分な要求を、自分に課した。いかなる局面で、かような錯誤が起きたのか。ま、いい。いまさら、取り返しのつかないことだ。 だらけているのを、責めている奴が居る。ふん、俺だって、やる時にはやる!ほっといてくれ。
2006.7.20(木)曇り。入間川歩行はお休み。 九時、親水公園南端。所在無い。 昨日だったか、いや、一昨日だ。検索バーに「箕川功貴」と入れた。意外にも、サイトが、ずらずらっと出てきた。何者かといえば、大学時代の友人だ。今は、プロの演出家として、活躍している。 いくつかのサイトを、ななめ読みした。経歴なども載っている。現在は、「ドラマセラピー」のセミナーを主催しているようだ。これまた、非常に意外だった。 NHKの朝のニュースだった。洗面のかたわら、ふと見ると、「ドラマセラピー」の特集だ。あれっ。歯磨きの手を止め、画面に見入った。心理療法の一種として、最近、注目を集めている。欧米では、昔から、医療の分野で、取り入れられているが、日本では、民間のセミナーなどで、この手法がもちいられている。役割演技を通し、人間関係の改善や自己洞察などが期待されている。 セミナーの講師の姿が、画面に映った。ひょっとしたら、と思ったが、彼ではなかった。正直言って、ほっとした。 大学時代に、競い合うように勉強しあった仲だ。演劇観や人生観の相違で、ほどなく袂を分けたが、さほど、いやな思いをしたわけじゃない。むしろ、世話になったことさえある。その、昔の友人の成功を、妬む気持ちがある。なんという、恥知らずだ。 すぐにでも、連絡を取り、力を貸すくらいのことは、してもいいはずだ。「ドラマセラピー」ということなら、こちらにも、それなりの蓄積はある。 芝居をはじめて、三、四年経った。初発のエネルギーを使い果たし、スランプに陥った。向かうべき、演劇の方向性が見えない。そのとき、「サイコセラピー」という分野に、多少の興味を持った。文献を調べ上げ、ついでに、心理学や精神分析の本などを、片っ端から読んだ。 どうも、ピンとこない。本を読めば読むほど、懐疑的になった。自分のやりたいことは、演劇ではないのかもしれない。 演劇の本質を、自己開示、自己回復とした。しかし、これは、間違いだった。自己回復の手段として、演劇を使う。こう割り切って、考えればよかった。「演劇の本質」などは、どうでもよろしい。大切なのは、自分が何をしたいか、ということだ。 「サイコセラピー」=「ドラマセラピー」の主要な手法は、役割演技だ。ここには、「演技」という概念に対する、懐疑がない。しかし、懐疑がないほうが、幸福な場合もある。既成の演劇概念を駆使して、自己や社会に役立てる、という道もあったはずだ。 自分は、「演劇」とか、「演技」とかの概念に引っかかった。典型的な演劇青年だった。自分の頭で考えたことを、舞台化する。オリジナリティーを求めた。とはいえ、それは容易いことではない。知力、体力、精神力、すべてに関して、力不足だった。 多くの演劇青年と同様、ないものねだりをした結果、あえなく、海のもくずとなった。しかし、一時なりとも、自分の人生をかけ、既成概念に立ち向かった。口先だけじゃない。肉体を通したのだから、それはそれで、一定の社会的役割を果たしたことになる。 話を戻そう。「ドラマセラピー」のことだ。心が動いたのは、まだ、演劇に未練があるからだ。そうおもったが、すぐに打ち消した。面白くないだろう。不適応を抱えた人間に、役割演技を指導したところで、それがなんになる。自分のやるべきことじゃない。 写真を撮り、文章を書く。孤独な作業が、自分には合っている。もう、後戻りはしない。残りの人生を、表現者として全うする。ほんの少し、寂しいだけだ。
2006.7.22(土)小雨。入間川歩行はお休み。 八時五十分、親水公園南端。寝不足か?気分がさえない。 昨晩見た夢。最寄の駅が改修工事中。ヒトであふれかえっている。ホームに隣接して、飲食店もできた。どこも満員。階段を上がる。上にも店がある。やはり、盛況。 今朝方見た夢。大きなレストラン。薄暗い。浦和のMのようでもある。Tさんから、ケーキを手渡される。Fさんに包丁の置き場所を聞く。なぜか、親しげな雰囲気。 九時十五分、すこし明るくなった。気晴らしに、写真でも撮りに行こう。 入間川十七番、広瀬橋。十時から十二時。 根岸線、広瀬の信号を直進。ひとつめの、手押し信号を左折。民家の間の細い道。すこし行くと、自転車道の土手。それをまたぐようにして、川原へ入る。左手は、ゲートボール場、右手は、河川敷運動広場。運動広場は、ずうっと、川カミの豊水橋まで続いている。 車を広場の脇に止め、外に出る。ブランコなどがある。誰もいない。これさいわいと、写真を撮り出す。 曇り空。日差しはまったくない。風景は駄目だが、スナップならいける。遊具が主役だ。 誰もいない公園。色鮮やかな遊具が、点在している。子供たちの歓声が聞こえてくるようだ。「不在」を、強く意識した。しかし、その分、写真がクサくなった。思わせぶり、なおかつ、押し付けがましい。 あのとき撮った写真は、どれもこれも、背景がない。遊具が、周りの空間から切り離されている。そういった構図上の問題もあった。 事物を、空間の中に解放する。すると、思い込みが、対象化され、画面に、抒情が醸し出される。しかし、曇天、きれいに撮る技術がない。
自転車道を、川シモへ向かって、歩き出す。運動広場では、少年達のサッカー大会。しばしば立ち止まり、見物。どの試合も白熱している。みな、真剣。一生懸命だ。とはいえ、写真は撮らない。撮ったところで意味がない。 河川敷へ入り込む道が、自転車道と交差する。脇に、小さな神社があり、その前の、仮設のベンチに、老人たちが座っている。そばに大きな木があるので、日陰。たむろしている感じ。神社を見たかったが、反対に、じろじろ見られそうなので、やめにする。 自転車道が切れる。豊水橋に突き当たる。橋の下に、土方のアジト。まだある。まあ、いい。真新しいコンクリの護岸を、ななめに下りる。チラッとアジトを見る。人影がない。それでも、伏せ目がちに、そうっと、脇を通り過ぎる。 豊水橋の真横。魚道の入口に、案内板。新しくなっている。しかし、もう落書きがしてある。下を見る。堤防の上が水浸し。とてもじゃないが、歩けない。堰も増水していし、危ない。下りるのを止める。 どうしようか。今来た道を戻るのも、芸がない。今度は、川沿いの川原道を行こうか。首をのばし、様子を見る。いたるところに水溜り、道は泥だらけ。しかも、護岸際に雑木が生い茂り、視界がない。増水した流れも見えない。とはいえ、ふたつにひとつ、行くしかない。
2006.7.23(日)曇り一時晴れ。入間川十七番、広瀬橋。十時から十二時半。 天気がよくない。入間川歩行はお休み。そうきめて、親水公園南端へ向かう。しかし、今日は休日、案の定、少年野球の練習だ。目障り。すぐに回転。給水橋の下へ行く。車の中で、写真紀行を書き出す。九時半、少し陽がさしてきた。とたんに、車の中が暑くなる。集中が途切れる。 目の前の護岸。散歩オヤジが、まだいる。今日は、紫色のTシャツに、ブルーのハーフパンツ。どこか、ちぐはぐ。先ほどから、片足を横に上げ、そのまま静止。下半身を鍛えているらしい。まるで、案山子だな。そばに、毛並みのいい柴犬が、ちゃんとオスワリしている。細い目をして、見守っている。血統証つきの犬は、飼い主より賢くみえる。最近、しばしば目にする光景だ。 移動。歩行に切り替える。根岸線を走り、広瀬橋へ向かう。左岸の橋の下に車を止め、橋の上を歩こう。ところが、川沿いの道が、泥だらけ。なんとなく、いやけがさして、回転。橋を渡り、右岸側の、鵜の木グランドへ回り込む。川沿いの道を行けば、橋の下だ。とおもったが、こっちの道も泥だらけ。しかし、もう、行くしかないだろう。 泥道の真ん中に車を止めた。護岸沿いの傍流で、静かな所だ。ふむふむ、鳥がいる。灰色がかった、首の長いやつだ。たしか、クロサギとかいったな。車をおり、そおっと、護岸に立つ。その瞬間、バサバサっと音がして、茂みから鴨が飛び立った。浅瀬でも、バシャバシャやっている。覗き込むと、鯉が、五、六尾、ゆるゆる泳いでくる。 鳥も魚も、静かなところが好きなんだ。そうおもいながら、護岸に腰を下ろそうとした。とたんに、帽子のジイさんが来る。あきらかに散歩。下ろしかけた腰を引っ込め、やり過ごす。向き直り、グランドのほうを眺める。はじめて目にする景色だが、たいしことはない。お義理で、撮っていると、今度は、二人連れのオバさん。やはり散歩。ふ〜む、散歩道になっているな。落ち着かない。移動。 タイヤを汚さないように、ゆるゆる走る。すぐに橋の下。ホームレスはいない。水門工事の際に、一掃されたとみえる。車を止め、外に出る。水辺に、なにか、見慣れぬ植物。繁茂している。黄緑色が鮮やかだ。おりしも、うっすら陽がさしてきた。すかさず、対岸の民家などを入れて撮る。撮れたとおもった。
このあと、橋に上がる。歩道を行ったり来たりしながら、川シモ、川カミを、ゆっくり眺める。なじみの景色だが、今日は、気持ちが動かない。明かりの具合がよくないのか。いや、いささか、見飽きたのかもしれない。ほとんど撮らずに戻る。暑い。車を日陰に移動する。休憩かたがた、写真紀行を少し書く。十二時半、腹がすいた。地元に戻り、吉野家で昼食。牛すき定食大盛り。ぺろりと平らげた。
2006.7.25(火)小雨のち曇り、一時晴れ。はっきりしない天気だ。入間川歩行はお休み。 八時四十五分、親水公園南端。 最近、ブログを登録した。気楽に、写真や切手のことを、書いてみようと思った。しかし、いっこうに筆が進まない。 入間川歩行、写真紀行、想念草子、日記帳、それに、回数を増やした数息。正直言って、日課をこなすだけで、手一杯。ブログを書く時間がない。それに、お袋の介護で参っている。気持ちに余裕がない。とはいえ、理由は、それだけではない。 他人を意識して文章を書くのが、なんとなく釈然としない。鑑賞した写真や切手の雑感を、なぜ、ブログに書くのか。書くことで、頭の中をすっきりさせたいのなら、想念草子で十分だ。 ヒトに読んでもらいたいから、ブログに書く。ヒトとつながりたい、コミュニケーションしたい。至極、まっとうな考え方だ。ところが、自分には、そうした考えがない。いや、ないとはいえないが、かなり希薄だ。それなのに、ブログに引っかかるのは、どうしてだろう。 文章は、自分のために書く。自分で書いて自分で読む。それで、ほぼ納得している。もっとも、自分のために書いた文章が、結果として、世のためヒトのためになるのなら、それはそれで、身に余る光栄というものだ。 文章に対する考え方がちがう。人様に、何かを伝えようとする意思がない。だとしたら、ブログなどやらなければいい。しかし、そう言い切れないところが、もどかしい。時々、人恋しくなるのだ。
2006.7.27(木)曇り、一時晴れ。蒸し暑い。入間川歩行はお休み。 九時、親水公園南端。気持ちがざわついている。モノを書く気になれない。
2006.7.29(土)晴れ。雲間から日差し。入間川十七番、広瀬橋。九時から十二時。 広瀬橋を渡る。小学校の中を通りぬけ、川原へ出る。橋際の土手に車を止め、橋の歩道を歩く。川シモの景色を、何枚か撮る。どうも、ぱっとしない。
移動。土手の下へ下りる。川原道を、行き止まりまで行く。堰の真横。草むらの中から、対岸を眺める。どうということもない景色。気のないシャッターを押す。 移動。土手道を、本富士見橋へ向かって、流す。橋の付近に、車が何台も止まっている。釣り人だけではない。青いビニールシートが見える。子供が周りで騒いでいる。デイキャンプだな。そばまで行くのが、うっとうしい。中途半端なところで停車。外に出る。 眺めはいい。手前に堰。水量が豊富。ほとばしっている。その後ろに、広瀬橋。空が澄んでいれば、外秩父の山並みが、手に取る様に見えるはずだ。あいにく、今日は日差しが弱い。全体的に、ぼおっとしている。ためしにと、200ミリの望遠。堰の水流を狙ってみた。流れ落ちる銀色のしぶき。そんなものは、どこにもない。 もと来た道を戻った。引き上げるには、まだ早すぎる。ふと、思いたち、南側の丘陵へ向かった。円筒形の、大きなタンクが二本、丘の上に立っている。よく目立つ。給水施設だと思うが、まだ近くまで行ったことがない。 探索。丘の下の細い道を行く。車を止める場所がない。うかうかしているうちに、一般道へ出る。これは、入間基地へ行く道だ。しょうがない。踏み切りの手前で、右折。稲荷山公園の駐車場へ入った。さほど、暑くない。散歩がてら、歩いてみよう。 昔は、米軍のジョンソン基地だった。返還され、跡地を公園にした。そのせいか、どことなく、垢抜けている。手入れの行き届いた、広い芝生。目障りな造作もなく、ゴミひとつ落ちていない。じつに、アメリカ的。静かでいい所だ。 公園の縁を歩いた。フェンスに沿って、雑木が生い茂っている。どこまで行っても、見通しはない。その間、ランニングの高校生と、頻繁にすれ違う。中には、女の子もいる。胸が弾んでいる。健康的な、エロス。目が吸い寄せられる。 突如、真新しい住宅の群れ。公園に隣接している。柵をすり抜け、住宅の間を歩く。比較的、家が大きい。しかも、造りが、みな洒落ている。自分とは、まったく違った人種が暮らしているに違いない。ただし、問題がある。基地の騒音だ。空を見上げ、耳を澄ませた。静かだ。飛行訓練は、お休みだな。 住宅地を抜けた。ペンキのはげた、白い平屋。造りが懐かしい。木製の物干し台も、白。あきらかに、日本人の感覚ではない。昔、米兵家族が、住んでいたのだろう。 物心がついた頃に、板橋の前野町に引っ越してきた。近くに、アメちゃん部落があった。急な坂に、白い平屋が並んでいる。グリーンの網戸、ピンクのカーテンがゆれていた。行ってはいけない、と親に言われていたが、近所の悪ガキにそそのかされ、のこのこ付いて行った。 興味深々、家々の窓をのぞいて、歩いた。そのうち、小さな女の子の顔が見えた。母親に促され、お皿を差し出した。茶色いものが乗っている。そのお菓子を、ひったくって、逃げた。いや、はにかみながら受け取り、小さない声でお礼を言った。お人形さんのような、女の子。カールのかかった金髪に、すこし茶色が混ざっていた。 住宅地が切れる。あった。コンクリの、でかいタンク。ほかにも、鉄製のやつが、幾つもある。とはいえ、施設内は立ち入り禁止。高い柵で囲われている。柵越しに見上げるしかない。威圧感がある。でかすぎて、撮りようがない。こういう物体は、遠くから眺めているに限る。 丘の上から、入間川を眺める。ちょっと、無理なようだ。
2006.7.30(日)晴れ。雲が多い。さほどあつくない。入間川十六番、本富士見橋。九時から十一時。 本富士見橋を渡り、16号へ出る。少し行くと、左手に更地。手前の道路が少し広くなっている。これさいわいと、車を止める。民家沿いの道を歩き、橋のたもとに出る。歩道を、ゆっくり歩きながら、川シモの景色を撮る。見慣れたせいか、気持ちが動かない。 橋を渡りきり、左岸の川原へ下りる。河川敷公園の草が、きれいに刈り取られている。真ん中を突っ切り、堰へ向かう。その手前に、こじんまりした花壇がある。紫色の花が咲いている。名前は知らない。ハーブの一種かもしれない。土手を背景に、ねばって撮る。
護岸を斜めにおり、堰におり立つ。水しぶきが、気持ちいい。しかし、あいにく、逆光。眺めるだけだ。と、少年が二人、筏を漕いでやってきた。よく見ると、タイヤの浮き輪をふたつ付けている。お手製だな。 目で追っていると、堰越えに挑戦だ。まずは、二人とも、ずぶぬれになって、堰の上に這い上がる。次に、堰の上を歩いて、下りられそうな場所を探す。さらには、筏を担いで、波消しブロックの間に入り込む。しかし、凸凹しているから、なかなか進めない。ヤケを起こして、諦めるのか。いや、おどろくほど慎重だ。粘り強い。そうこうしているうちに、とうとう、堰越えに成功。ふ〜む、思わず感心してしまった。夏休みの冒険というわけだ。 土手に上がった。自転車道を、広瀬橋のほうへ向かった。途中、土手下に、オシロイバナが群れている。民家の共同花壇だ。ほかにも、咲いている。朱色の車ユリ、真っ赤なホウセンカ、紅色のアオイ。先ほど撮った、紫の花もある。向かいの民家のばっちゃんが、丹精込めて、咲かせた花々だ。
人間は、花を愛でる心をもっている。多少、いい所もある。そうおもいながら、土手道を戻った。橋際まで来て、立ち止まり、今来た道を振り返った。西の空が、淡い水色。それに、なぜか、風がさわやかだった。
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